久しぶり

自分のことを書いてみよう。

今はとても孤独。仕事がないだけで世界から弾き出されたような気がする。不思議なくらい。春は試練の季節、お金と、時間を気にしながら。

最近は積読を崩している。喫茶店に来てみたが、結局家が一番誰にも邪魔されずに読むことができるとわかり、ネットサーフィン。

宇多田ヒカルのベストを聴いている。アルバムは曲の流れがあるのに対して、ベストはブツ、ブツ、と作品が切り離されている感じが心地いい。

 

この間友人と喫茶店に行くまでの半地下の階段の踊り場でCDショップから漏れ出す宇多田ヒカルの「何色でもない花」に二人でうっとりと聴き入った瞬間があった。ときがとまったようだったし、宇多田の威力。この人を停止させるくらいのオーセンティシティ。

 

最近読んだ批評入門に関する本には「そこに出てこないもの」にも注目せよと書いてあった。そして、登場人物は大体ウソをついている前提で読みなさい、と。

ADHD言語理解バカの私には明記して論理的に説明されて初めてわかることがある。

宇多田の「Addicted To You」の最初「別に会う必要なんてない」を聴いて疑ってみる。ウソでは?と。で、聴いていくとサビの「だけどそれじゃ苦しくて/毎日会いたくて」につながる。キター!!なるほど。批評っておもしろいかも。

 

腕時計のベルド部分から編み込んであったステンレス(?)がぴょんとはみ出してきて、腕から血が出た。ベルトを新調しないと。と思いつつ札幌に店舗はあるか?

 

昨日派遣会社から電話がかかってきて、失礼ですが個人事業は今もしていらっしゃいまsか、と尋ねられた。はい、まあ。と答えると、仕事を次々と斡旋され、担当の男性は「まあぶっちゃけ、個人事業っていつ仕事なくなるかわからないじゃないですか」と言った。そのときは何も思わなかったのだが、電話を切ってからめっちゃ失礼では?と思い直す。百も承知だ。

 

昨日はNHKプラスで宇多田ヒカルのショーを見た。途中の人生相談的なターンはたいくつで飛ばしながら、セットが豪華な歌番組は楽しいな。

近所のスーパーにウィルキンソンの強炭酸ジンジャーエールが入荷。これは買い。夏が来るのかな?

ふたたび

今日は起きて、派遣会社から催促されていたシステムの手続きにようやっととりかかった。

各種登録に2時間半かかる。どういうことなんだろう。

その後、引っ越してから初の皮膚科に行く。近所の皮膚科を調べて何となくあたりをつけて。

システムへの登録に手こずったあげく、掃除機をかけたのでギリギリで診察時間が過ぎてしまった。泣きそうになったけれど、もう一つ先の駅にあと30分長く開いているクリニックを見つけ、自転車を走らせる。あと30分あるという贅沢に、私は自転車をゆるやかなペースにして、らんらんと漕ぐ。さっきの惨めを薄める。

 

皮膚科にいくのにワンピースで来てしまった。

仕方ないのでパンツも医者に見せる羽目になってしまった。パンツの上に履くやつがあってよかった。

 

芥川賞のスピーチにびっくりした。心底、刺された。読書できるマチズモ?その条件に、私は、私の無知を知る。心が動かぬようはたらきかけている私の情緒を感じとる。動揺しないことは、かっこいいの?

 

今日は頭がボーゼンとしていて、うまく働かない。

でも新しいイオンモールを見つけて、そこの書店で2時間くらい立ち読みしていた。ハンチバックは非常にわかりづらい場所にあった。最後の一冊だった。

本屋に行くことができる自由。

 

私はまた新たな流れに飲み込まれている、飲み込まれている?私が起こしている波か。

今日は泣きたかった。一人の部屋にいると、社会がつらく苦しいものに迫ってきて、どうしようもない。

それは、システムへの入力、初診の皮膚科、問診票。職場への適応。

 

この新しい波を。真面目に生きたいよ。

それにしても斎藤幸平はセクシーというか、色っぽいというか。たくさんメディアに出てくれてありがとうって思う。

 

オザケンの新譜、何気なく聴くと、夏の夜に沁みる50代中年の甘い声と麗しき旋律。歌より語りのようにでもメロディは確実に。

お酒をちょっと飲んだからな(ぁ)/「子供のように喋りたいのだ/静かなタンゴのように

 

お酒と子供、静かとタンゴ、その幅を包み込むドラムを!

今日はたくさん泣いた。ごはんを炊いた。

誰にも評価されない私の食事と、自転車を漕ぎながら想像する、味。熱さ。

お昼に作ったたっぷり豆苗入り甘酢じたて親子丼が美味しかった。

おやすみ。もっと書きたいことがあるのに。

ベランダ

ドンペンちゃんの健康サンダルを履いてバルコニーにいる。

もう、一人暮らしを始めて3ヶ月になる。

 

豆乳を腐らせた。落ち込んだ。

こう、うつと、落ち込みの間を揺蕩っている。

 

この暮らしが好きなこと。この暮らしの先行きが全く不確実なこと。

母から妹から病院で働いているんだって?とショートメールが来て、ああ言ってなかったっけと思う。

とつぜん母の存在が現れ、なんかあったら言ってねとまるで私じゃないかという声の掛け方を文面でされ、うん、まあ、特にないかなと送る。

 

今日は明らかに食材を買いすぎた。

もうそろそろ食費の見直しとかしないと。

お試し期間から安定期間への移行をしなきゃと思う。

 

といいつつ、今日は夏野菜(高い)のピクルスを作り、カクテキのパックを買うのをやめて、自分でキムチを漬けた。

ご飯をたくさん炊き、労働に備える。

 

私なにしてんだろと思う。

だれか守ってくれと思う。

だれとも会いたくないと思う。

友達と会って話し込みたい。

もうすぐ生理が来る。

薬とナプキンを用意してから眠る。

 

別れた恋人を懐かしく、恋しく思う。

ただ、たとえ彼が隣にいても、この孤独は誰がどうこうというものじゃなく、私が静かに時間をかけて、不安とも仲良くならなくちゃ。

 

恥ずかしさと泣きたい気持ちと。

それでもだいじょうぶよ。そう言って。

週末

一人暮らしをしてから、窓から見える通りの音や、近所の情景の微妙な変化で、週末を意識するようになった。

飲み始めた漢方が効いて、かなり身体がかろやか。

 

最近はメルカリで自分の持ち物で売り出してもいいものを厳選して出品しいてる。

売れたり売れなかったりする。けれど、やはり適正価格をつけることの重要を感じる。

自分の価値観では売れない。人間はサンクコストに弱いという言説が身にしみて、おもしろい。

メルカリはしっかりとしている企業の取り組みをしている側面を知っているので、使いやすい。百均と梱包材で提携を結んでいたり、SFC認証を取得していたりで心地いい。アイコンやユーザーのサポート体制や、何より出品者、購入者双方の負担が最小限に抑えられているシステムがあまりに鮮やか。

 

スタジオジブリの新作を見てきた。以下ネタバレになります。

君たちはどう生きるか、というタイトルを「僕たちはどう生きるか」と言い間違え言い間違え。君たち、と僕たち、の差異がわからない自分に気づく。

それで…宮崎駿の遺言みたいだなと思いながら映画を見ていた。

 

映画は、特に映画館で見るときは、細部ではなくぼやーっと、全体を受け止めたい。

ここがあの伏線で…とか、そういうのはぼやっとみて受け取れるだけを受け取りたい。

芸術、エンタメは、ぼやっと受け取る。全体をつかむみたいな…。

それで、まあ今回の新作については、作品の深度にはそんなに期待していなかった。

そして、その通りになった。

弱い男性とそれを包みこむ女性という構図や、家族の描き方の中にある性別の役割の明確さ。

老いた女性を醜き、若い女性を美しく描くところ。

母親像、女性に包み込まれる、助けられる、守られる、勇気付けてもらう、見守ってもらう、そういう役割を押し付けるところ・・・。

そういうのに、心底、冷める。

 

先月観た映画「怪物」は、期待していた分、時代遅れの描写とストーリーに心底冷めた。

映画「怪物」の描写とその監督や脚本、そして今作も同様、大衆性と権威を持った監督や会社に、私は私として異を唱えなければならない。私には、そういう責任がある。

あの監督だから、あの脚本家だから、もう年だから、そういうので、違和感をなかったことにしないで、堂々と口に出す。出さないと。

なぜなら、彼らは、カルチャーを作ってきた人たちでもあるから。

そんなことをぼんやり思い、そして、寂しくなった。彼らのことを、かつての私は偉大な父のように、道徳の規範のように、思ったときもあったっけ。

あったけど。今の私は違う。かつての私、かつての私のような誰かが、世にあるストーリーを見ることで、暗に自分の可能性を小さく捉えている。なぜなら、観たもので学習するから。もちろんそれがフィクションでも。

という文を書いている私はまあまあ論理的になろうと頑張って書いていて、それすら自分が窮屈に思う。

思ったように書くことができたらと思うが、まだできない。まだ、彼らに対する…いや、大衆性のあるものを楽しむ人たちに対する、引け目がある。

引け目。いやな言葉。

 

でも、今回の作品、ストーリーの一貫性も、キャラクターの一貫性もなかったところ、すごく好きだった。そう、説明なんかできないし、外から見て納得なんてできないし。

だから、バラバラで、でも何かにしたがっていて(宮崎駿の作家性だろう)、よかった。すごく、そこはよかった。一貫性がないことが一貫性になるまで。

 

私は、これからしばらく、作り手の「現在の構造の無自覚さ」「特権と抑圧の無自覚さ」によって冷め続けるだろう。そして、誰かに感想を共有するときに、言うかどうかためらって、どう思われるか怖くなって、でも口に出すのだろう。

それで悔しく悲しく寂しい思いもするだろう。

でも、そうしていかなきゃね。

 

「あなたはあなたの正しいと思っていることを話しているんでしょう?」とふとした会話で言われたこと、すごくもやもやしている。違和感がある。

それってつまり…つまり?「私が思う正しいこと」であり、通説とは違うと。みんなに共通するわけではないと。そう言いたいの?

 

そう、でもそう思われても。誤解されても、伝わらなくても。

一生懸命聞いて伝えて、それを繰り返す。ムカつかれても、嫌な気分になられても。

 

「真面目に、生きたいんです。」

それでも、生きてゆく」の満島ひかり演じる双葉の顔と声が、このごろいつもよぎる。

私は、優しくいたい。

 

がんばれ!

 

 

ナースジュースを履いて

昨日から新たな職場にて、働かせてもらえることになった。

久しぶりのフルタイム勤務。

大雨の影響からか、しかし混むときは混む某医療機関にて、私はスタッフをしている。

ナースシューズを買いに行ったのが一昨日とは思えない。

換金してくれるというのに甘んじて、シルバーのキラキラのナースシューズを選んだ。

そもそもナースシューズというものをよくみたのは初めてで、たくさんの種類があることに、世界のワンダーを見る。

選択肢が多いっていいこと、自分のスタイルを追求できること。

 

とはいえ早起きは苦手。でもお守りがわりに自分で淹れたコーヒーは持っていく。昨日はホットで、今日はアイス。あと麦茶のボトルも持っていく。

 

制服と言われていたが正味白衣だった。ちょっと可愛い。大人っぽく見える。

そして私は受付に座ったり出たりしながら、働いている。実感としてはもう1ヶ月くらい働いた気持ちでいるが、まだ2日。

だって、すっごいたくさんのことを覚えた。

 

そのせいか、昼休みの時間のほとんどを睡眠に充てていて、残りの15分くらいでようやっと動き出しご飯を食べている。

共用の休憩スペースのすみで鞄を抱えて眠っている新人は明らかに変かもしれない。が、もう生きる術だ、眠れるときに寝ないと。ほんとに。

 

私は人生でいい職場に恵まれ続けていると思う。

働くとき、そばにいる人たちは皆それぞれに異なるワンダーを秘めていた。

それは今回も例外でなく。

まず第一声上司に言われたのは「失敗していいから」だった。度肝を抜かれた。

そして、スタッフさんたちは「急がないで」と言う。

今日は天気による頭痛を起こして途中薬を飲みにロッカーに戻りたいと伝えると、私の一つ上の先輩はいつでも休んでいいから、1時間とか寝てたりね、それに、前に働いていた人はひどい偏頭痛持ちで、ずっと頭が痛い痛いって言ってたよ、と教えてくれた。

職場環境の偉大さに、人生の充実の度合いの変化に、私は圧倒されている。

働く人たちが粛々と作っている柔らかで正確な秩序と、柔軟さに。

最近読んでいた小説に、体調が悪くなったら伝えられるということが、登場人物の体調を和らげる描写があった。

いろんな人がうちの施設に来る。

 

しかし新聞は溜まる溜まる、開いても情報を掴めない。昨日出た判決のことも。

 

今日出回った有名人が亡くなったニュースがあまりに悲しく、辛く、やるせなく、友人と電話して過ごした。

トランスヘイト、自分の道徳を人に押し付ける境界の甘さ、理想的な家族観、マイノリティに対して無知であるにもかかわらず持論を持つ反知性主義

今日で反知性主義を、身体でわかってしまった。

友人は言った、私だって、と。それは公のここに書くわけにはいかないけど。

私がやったのだと思う、私が加担したのだと思う、私が声をあげなかったから。私が。私が。私が。

 

なんで、あなたは今の職場で働き出したの?と友人をは聞いてくれた。私は、今自分の事業の投資のためにお金が必要なんだと説明すると、とんでもなくまっすぐな言葉で私を讃えてくれた。

超かっこいい、そんなふうに、自分の道をいくのね!と。

私はむしろ本業で思うように稼ぐことができていないこと、去年よりなんちゃらかんちゃらという非常にみみっちいことを思っていたので、とても清らかな気持ちになった。洗い流されたような。

 

新しい環境に入って慣れないことをやることに慣れたいと思ってる。

私が得ている教訓は、最初はできることを目標にすること、最初は心理的な負担が大きいから、軌道に乗るまでは甘えること。安心してから動くこと。

例えば、初日はお弁当をつくらなかった。今日はご飯だけ持って行った。そんなふうに、だんだんと。

そして、手放すこと。中途半端に本を読んだら読書体験へのイメージがわるくなるので、いっそしないこと。

意図的に肩の力を抜くこと。甘いものをたくさん食べて、自分をよしよしする。

 

マッチングアプリはアカウントごと消した。

 

 

 

さらばミソジニー

いつもの日常とはまた違う、数時間の出来事を圧縮して書き留める。

そうして、それが、私やほかの誰かに、何かの感情を生み出せばいいと思う。

 

ふらりと、マッチングアプリを使用してみた。

ある一人の男性は、すごく私が好きな雰囲気と顔で、電話すると話し方や対応も大人で、私たちは1時間くらい楽しく話したあと、後日会う約束をした。

私はマッチングアプリを通して人に会うのが初めてだったので、とてもどきどきした。期待しすぎないよう、でも、楽しめるよう。でも、危険が起きないよう、最低の出来事も想像しながら、その日を待った。

出来心で彼の名前をFacebookで検索してみた。すると、フルネームの漢字も教わっていないのに、あたりをつけた検索の6番目くらいに彼らしきアカウントを見つける。それで、某有名大学出身だということがわかった。こんなにあっけなく知ってしまっていいのだろうかという後ろめたさもありつつ、Facebookのアイコンに映る彼はやたら愛らしく見えたので、私はもっと会うのが楽しみになる。

 

夕方、二人で決めたお洒落なお店の前で待ち合わせる。想像していたとおり、随分大人で、遅刻した私を彼は、遅刻くらいでどうも思わないよ、と笑った。

カウンターの席に座り、綺麗な内装に劣らない、美味しく綺麗な色のお酒を二人で飲みながら、美味しい料理をつまんだ。サラダとか、お肉とか、ピクルスとか、そういうの。

 

とにかく会話が弾んで、私たちはよく笑っていた。洋服の趣味とか、料理の味とか、今日は暑いねとか、この時間は夜と呼ぶのか夕方と呼ぶのか、そういうことを話しては、私たちはくすくすと、けらけらと、そして時に真面目な仕事の話をした。

きょうだいの話になったとき、彼は家がとても貧乏だった、と言った。

そうなんだ、私の家は、たぶん中流家庭と言われるのだろうな、と私は言った。

そのあと、お互いの仕事の話になった。

それで、私はフリーランスでソーシャルビジネスをしているという話をした。自分の仕事を説明する際に、欠かせないジェンダーギャップの話もした。

「女性であるから、発言しにくいとか、なめられやすいとか、あるでしょう、そういう時にね…」みたいになるべく噛み砕いて伝えた。

 

ふうん、と彼は聞いたあと、「きみが羨ましいよ」と、にこやかに言った。

羨ましい?それは、私がフリーでやっているから?と問いかけた。

「きみは、頼る先があるんでしょう?」それは、頼る先?家のこと?

「そう、やりたいことをするためには金がないと、俺は、すべて金だと思ってる。」

うん。「金があるから、きみはやりたいことができたんだろう?」そうかも、ね?

「きみは何が不満なの?きみは、抑圧されているんだろ?」彼は言った。

うーん、もちろん私は女性である以上一定の抑圧は受けている、でも私が仕事でしたいのは、私の救済だけではなく、もっと社会に溢れる人たちに対してで…と私が言ったところで、彼は言った。

「女性だから、って、そういうので、何を損しているの?まず、金がないと、何もできない。俺は、そういう女性だから何かしてくれ、というのは嫌なんだ。俺は、努力しているヤツが報われる社会になってほしい。」

つまり…お金の分配が一番大事って言いたいんだね、と私は言った。それも大事だと思う、私は私が関わる事業は、基本的に参加者からお金を取らないことにしているんだ、それは、家の格差関係なく参加できるといいな、という思いがある。だから、パブリックな場とかと一緒にやることが多い、と言うと、彼は笑って、

「きみが嫌いな体制からお金をもらっているんだ。それって、矛盾しているんじゃないの?」と言った。私はなんて答えたんだっけ。でも構造はインターセクションで交差してる。社会は多面だし、すべて綺麗になんてできないよ、だから、やってるんだよ。そんなことを、言った気がする。むかついた?と私は聞いた。「ううん、面白いと思っただけ」と彼は言った。

私はそのとき傷ついた気にはならなかった。彼の思想と、私の思想は、ああまりにきっぱりと分断があったから、私はくっきりと「ああ、女性の立場のことを何も知らないんだ。」と思った。そのあともいろんな話をして笑ったりしながら、意見が違うと「思想が違うのなんて当たり前」と言った。

話し込むうちに、彼は私にさりげなく触れてくるようになった。悪い気はしなかった。私は、彼の思想には心底嫌気が指したが、彼が隣できらきら放つ肉体的魅力に惹かれていたのも確かで、私の頭は、私の嫌悪する価値観と、彼の肉体的魅力を天秤にかけていた。お会計は割り勘だった。

 

お店を出ると、彼はさあ、どうしよう。帰ろうかね、と言った。

そして、彼の家の方角でもある私の使用する駅まで、手をつないだ。彼は私のあたまを撫でた。

タクシーに乗りたがる彼に、私はこんな短い距離、歩きなさい、というとそうねと言った。そしてここでいう彼のいう「帰ろうか」は「(二人で)(俺の家に)帰ろうか」であることが非言語でわかった。

たしかに、叩き上げで、苦労をして、ミソジニー丸出しの、この手を繋いだ先の男性の肉体は、真実みを持ってそこにあるのだった。彼に、手をつながれたり、触られたり、キスされたりしながら夜の街を歩くのは、悪い気はしなかった。どう考えても未来なんてない二人の関係性だとしたら、私が嫌う価値観だとしても、楽しむのもアリじゃないか。

「あそこだよ」と指さされた先はどうやら彼の家らしく、流されるように近くのコンビニに寄った。慣れてはりますなあ、と心の中でつぶやく。

 

そして、「クレンジング家にある?」と彼に聞くと、ないよ、と返ってきたから、じゃあ、買っていい?と聞いた。うん、買いなさい買いなさいという彼のカゴにクレンジングを入れると、「いや、自分で買いなよ。」と言われた。なんで、別にこれくらい買ってくれたっていいじゃない?と私はちょっと媚びて言った。それでも、「いや、自分で使うものは自分で買いなよ」と言われた。どうやらマジらしい。

それで、さっきまでゆらゆら揺れていた私が毛のうるジェンダーに関する彼の価値観と、彼の肉体的魅力が、前者に振り切られた。

私は、今度は媚びずに「なんで私が買うの?あなたは稼いでいるんだし、それくらい買ってくれたっていいじゃない」と言った。彼はさっきと同じようなことを言った。

「別に自分で買いたくないなら、バイバイしよ、」と言った。私は少しの間黙った。「俺が買うのはおかしいでしょ、あなたが使うんだから。俺がいくら稼いでるかとこれは、関係ないでしょう。」

「なるほどね、じゃあ、今から『私の家くる?』って私があなたに言ったら、来るの?」

「いかないね。」

「私が言いたいのは、その『非対称性』なんだよ」

「なんだよ、いやなら帰ろう。」

 

それで私は、うんわかった、じゃあね、とひらひら手を振って駅のほうへ歩いた。

天秤が、崩れる。彼の肉体の輝きが、消えた。

すたすたとまっすぐの道を歩きながら、私は茫洋とした気持ちで、後ろを振り返りもせず、ああ、明日は何するんだっけ、と思った。

 

地下鉄に乗って自分の最寄り駅についたとき、どっと疲れが押し寄せてくる。

私、恋のきらめきが消えるのは、またはうまくいかないのは、相手が私を好みじゃないとか、その逆とか、ノリが話ないとか、性格が合わないとか、そういうことだと思ってたよ。

彼の思想は私は心底嫌いだが、それは社会がつくったものでもある。社会が作り出した、抑圧。そうした政治的なことが、あったかもしれない私の(ワン)ナイトを、惹かれ合う者を分断し、恋のきらめきさえ私から奪われてゆくのを感じた。

 

私はジェンダーの価値観の分断、ミソジニーやいきすぎた新自由主義が私の私生活になだれ込んでくるのを、それを確かに感じた。そしてその雪崩は、恋心さえも巻き込みぶっ壊し、粉々にする。頭の中には「125」の数字が大きく大きく揺れている。ジェンダーギャップ指数、125位。過去最低。うん、まぎれもなく、125だよ。そうだよ。

 

言葉たち、踵を返す力を私にくれてありがとう。

遠くにひらひら手を振るよ。さらば、ミソジニー

 

Garden

今日は低気圧にうなされて起きる。

シャワーを浴びお皿を洗いトリートメントを流す。

午後からエンジニアのお兄さんとチェーンコーヒーショップで落ち合い、お話し合い。

 

自転車を乗り回す。

お兄さんは、(案の定)遅れてくる。

遅刻者同盟を組んでいるので、待つ人が心地いい場所で待ち合わせる。私はとてもらく。

 

わりかしコーヒーを売りにしているチェーン店。

先に注文をする。アイスコーヒーが深煎りかどうか店員さんに尋ねると、ちょっとわからないですと言われ、私は、あ、あのー、苦い感じですかね、それとも酸味が強いですかね、と尋ねると、「まあそれは、人それぞれの感じ方なので、、」と言われ、お、おう、、、となった。結局美味しいアイスコーヒーがきた。

 

彼はつかれたつかれたと言いながら、二人用のテーブルに収まりきらない脚を投げ出して、いつまでもオーダーに迷っている。

 

彼は、私に対してあけすけにずけずけとフィードバックをくれるから、私は不貞腐れながら変化してく。「あなたの今の説明はわかりづらい」とか。

「じゃあ、ここまでをまとめる」と言うと、「もう少し悩んでもいいと思う」と言う。

ふうん、別に、いいんだ。一緒に、やってくれるんだ、と、私は別れて自転車をすいすい思う。

 

人生初、メルカリが売れた。

相手のお金を預かっている、、、と思うとやたらびくついてしまい、友人に助けを仰ぎながらなんとか(簡単なのだが、、、)発送した。

その瞬間キーケースが丸ごとなくなっていることに気づく。

発狂、、は、しない。

なぜか。慣 れ ているから。(あと、診断が出だのが大きい)

不意に何かに熱中するとそれしか考えてなかった、となってものをなくすことはよくある。

虚無。うろうろする、店員さんに聞くも、ないなあない、、、警察に電話、管理会社に電話。数十分うろうろしていると、、、歩道の草むらにて発見。

 

ああ、、、、、、。

警察にまた見つかったと電話、管理会社に平謝り。管理会社さんは、あなたねえ、スペアキーを何個か作って、本物の鍵はずっと家に置いときなさい。それがいい、と気のいいおじいちゃんは言った。

 

それで時間が狂う。

お米を炊く支度をして、溜まった新聞を読んで、アイスコーヒーを作ろうとして氷がないのでまた家を出る。忙しい忙しい。笑

 

副交感神経優位になると身体が痒くなる。

帰ってきてアイスコーヒーを使ったはいいが、新聞を読みすぎて氷が溶け切る。

 

まあでもここは私一人だからいい。どれだけ不注意でも多動でも咎められない、少しでこぼこの私にはいい暮らし。

明日はもらったスタバチケットでアイスコーヒー飲むんだ。

 

誰かに会いたいような会いたくないような、縋りたいような一人でいたいような。

 

夏飲むっとする草の匂い。はやる気持ち。

確認したいよ、なんだって。

私は適切な距離感で人間と接することができるよ。

 

そう、メルカリが売れたのだ。

初めてのこともよくできました。

愛しい気持ちでおやすみ。もう明け方になってしまうね。