週末

一人暮らしをしてから、窓から見える通りの音や、近所の情景の微妙な変化で、週末を意識するようになった。

飲み始めた漢方が効いて、かなり身体がかろやか。

 

最近はメルカリで自分の持ち物で売り出してもいいものを厳選して出品しいてる。

売れたり売れなかったりする。けれど、やはり適正価格をつけることの重要を感じる。

自分の価値観では売れない。人間はサンクコストに弱いという言説が身にしみて、おもしろい。

メルカリはしっかりとしている企業の取り組みをしている側面を知っているので、使いやすい。百均と梱包材で提携を結んでいたり、SFC認証を取得していたりで心地いい。アイコンやユーザーのサポート体制や、何より出品者、購入者双方の負担が最小限に抑えられているシステムがあまりに鮮やか。

 

スタジオジブリの新作を見てきた。以下ネタバレになります。

君たちはどう生きるか、というタイトルを「僕たちはどう生きるか」と言い間違え言い間違え。君たち、と僕たち、の差異がわからない自分に気づく。

それで…宮崎駿の遺言みたいだなと思いながら映画を見ていた。

 

映画は、特に映画館で見るときは、細部ではなくぼやーっと、全体を受け止めたい。

ここがあの伏線で…とか、そういうのはぼやっとみて受け取れるだけを受け取りたい。

芸術、エンタメは、ぼやっと受け取る。全体をつかむみたいな…。

それで、まあ今回の新作については、作品の深度にはそんなに期待していなかった。

そして、その通りになった。

弱い男性とそれを包みこむ女性という構図や、家族の描き方の中にある性別の役割の明確さ。

老いた女性を醜き、若い女性を美しく描くところ。

母親像、女性に包み込まれる、助けられる、守られる、勇気付けてもらう、見守ってもらう、そういう役割を押し付けるところ・・・。

そういうのに、心底、冷める。

 

先月観た映画「怪物」は、期待していた分、時代遅れの描写とストーリーに心底冷めた。

映画「怪物」の描写とその監督や脚本、そして今作も同様、大衆性と権威を持った監督や会社に、私は私として異を唱えなければならない。私には、そういう責任がある。

あの監督だから、あの脚本家だから、もう年だから、そういうので、違和感をなかったことにしないで、堂々と口に出す。出さないと。

なぜなら、彼らは、カルチャーを作ってきた人たちでもあるから。

そんなことをぼんやり思い、そして、寂しくなった。彼らのことを、かつての私は偉大な父のように、道徳の規範のように、思ったときもあったっけ。

あったけど。今の私は違う。かつての私、かつての私のような誰かが、世にあるストーリーを見ることで、暗に自分の可能性を小さく捉えている。なぜなら、観たもので学習するから。もちろんそれがフィクションでも。

という文を書いている私はまあまあ論理的になろうと頑張って書いていて、それすら自分が窮屈に思う。

思ったように書くことができたらと思うが、まだできない。まだ、彼らに対する…いや、大衆性のあるものを楽しむ人たちに対する、引け目がある。

引け目。いやな言葉。

 

でも、今回の作品、ストーリーの一貫性も、キャラクターの一貫性もなかったところ、すごく好きだった。そう、説明なんかできないし、外から見て納得なんてできないし。

だから、バラバラで、でも何かにしたがっていて(宮崎駿の作家性だろう)、よかった。すごく、そこはよかった。一貫性がないことが一貫性になるまで。

 

私は、これからしばらく、作り手の「現在の構造の無自覚さ」「特権と抑圧の無自覚さ」によって冷め続けるだろう。そして、誰かに感想を共有するときに、言うかどうかためらって、どう思われるか怖くなって、でも口に出すのだろう。

それで悔しく悲しく寂しい思いもするだろう。

でも、そうしていかなきゃね。

 

「あなたはあなたの正しいと思っていることを話しているんでしょう?」とふとした会話で言われたこと、すごくもやもやしている。違和感がある。

それってつまり…つまり?「私が思う正しいこと」であり、通説とは違うと。みんなに共通するわけではないと。そう言いたいの?

 

そう、でもそう思われても。誤解されても、伝わらなくても。

一生懸命聞いて伝えて、それを繰り返す。ムカつかれても、嫌な気分になられても。

 

「真面目に、生きたいんです。」

それでも、生きてゆく」の満島ひかり演じる双葉の顔と声が、このごろいつもよぎる。

私は、優しくいたい。

 

がんばれ!